「After Dark」から考える「事実だけを記載します」という1人称|名古屋市北区の歯科・歯医者|城北歯科医院・矯正歯科|土日診療

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「After Dark」から考える「事実だけを記載します」という1人称

「After Dark」から考える「事実だけを記載します」という1人称|名古屋市北区の歯科・歯医者|城北歯科医院・矯正歯科|土日診療

Googleクチコミで、ときどき「事実だけを記載します」という書き出しを目にします。冷静で公平な宣言のようですが、その後には「説明が不十分だった」「不誠実な医院だ」といった主観的な評価が続くことがあります。そこで語られているのは、本当に事実だけなのでしょうか。

この表現について考えているうちに、村上春樹『アフターダーク』が描いている世界の構造と似ているのかと思いあたりました。

空中を移動する「私たち」

『アフターダーク』には、「私たち」という独特な語り手が登場します。特定の人物ではなく、空中を移動するカメラのように深夜の街を俯瞰し、建物の中へ入り、登場人物たちを観察します。

文学理論では、物語を誰の視点から見るかという問題を「焦点化(Focalization)」と呼びます。この作品の「私たち」は、一人の登場人物の意識に固定されず、複数の場所を行き来します。まるで個人の主観を離れ、客観的な世界を映しているようにも見えます。

読者はこの「私たち」とともに、ある部屋から別の場所へ移動し、同じ夜を別々に生きる人たちを眺めます。一つの視点だけでは見えなかった関係が浮かび上がる一方、カメラが向けられていない場所は依然として見えません。視野が広がるほど、見えていない領域の存在も意識させられます。

しかし、その「私たち」も万能ではありません。姿や行動は観察できても、登場人物の心の内や、出来事の意味を完全に知ることはできない。視点を上空へ移したからといって、すべてが見えるわけではないのです。

1人称が3人称へ変わるとき

この仕組みは、口コミにも重なります。私たちは、自分の目で見たこと、経験したこと、感じたことを通してしか世界を知ることができません。つまり、どの体験も1人称から始まります。

たとえば、「私は、十分な説明を受けられなかったと感じた」という文章は、自分の体験を語っています。ところが、「この医院は、患者に十分な説明をしない」と書けば、意味は変わります。一度の体験を根拠に、医院全体について一般的な評価を下しているからです。

ここでは、1人称で経験した主観が、3人称の客観的事実へと変換されています。その冒頭に「事実だけを記載します」という宣言が置かれると、書き手個人の視点が、世界そのものの記述であるかのように読めてしまいます。

文章の主語を「私は」から「この医院は」へ変えるだけで、体験談は断定的な評価へ近づきます。書き手に誇張や悪意がなくても、その文法上の変化によって、読み手には普遍的な事実として伝わる可能性があります。ここに、口コミという短い文章の難しさがあります。

もちろん、「30分待った」のように記録で確かめられる事柄もあります。ただし、それが事実でも、「直前の急患対応」「遅延についての説明と謝罪」といった別の事実が省かれれば、読み手の印象は変わります。何を書くかだけでなく、何を書かないかにも視点が入り込みます。

客観性は視点の外側にあるのか

人は、自分が現実をありのままに見ていると考えやすいものです。心理学では、こうした傾向を「素朴実在論」と呼びます。自分と違う見方をする人を、「誤解している」「偏っている」と感じやすいのも、そのためです。

けれども、『アフターダーク』の「私たち」が示すように、1人称を離れたように見える視点にも限界があります。3人称で語ることと、客観的であることは同じではありません。視点を増やすことはできますが、どこにも属さない完全な視点を持つことはできないのです。

これは、口コミを書く人だけの問題ではありません。歯科医師である私が「十分に説明した」「適切に対応した」と考えるとき、それも私の1人称から見た判断です。患者さんには、まったく別の景色が見えていたのかもしれません。

だからといって、患者さんの評価をすべて正しいと認める必要はありません。不満を感じたことは尊重されるべきですが、そこから導かれた医院への評価が客観的に正しいとは限らない。同様に、医療者も、自分が正しいと信じているからこそ見落とすものがあるかもしれません。

「これは私の主観ですが」

必要なのは、自分の視点を捨てることではなく、自分の視点が唯一ではないと理解することです。自分の知識や認識には限界があり、誤っている可能性もあると認める姿勢を、「認識論的謙虚さ」と呼びます。

体験を正直に語ることと、その体験を誰にでも当てはまる事実として語ることの間には、見落とされやすい距離があります。その距離を意識するだけでも、言葉は少し慎重になり、対話の余地が生まれます。

私たちは、1人称でしか世界を経験できません。しかし、1人称の世界だけが、世界のすべてではありません。

「事実だけを記載します」と断言する人よりも、「これは私の主観ですが」と断る人のほうが、かえって客観性に近づいているのかもしれません。客観性とは、すべてを見通す能力ではなく、自分には見えていないものがあると認める知性なのではないでしょうか。

参考文献 村上春樹『アフターダーク』(講談社、2004年)